さて、これから般若心経について語るわけだが、あらかじめことわっておかなければならないのは、これを書いている本人は僧籍を持たないし、学者でもない。
ただ、数十年、気が向いた時に禅定を楽しんでいただけの者で、最近になって、ようやく1時間以上座れるようになった者に過ぎないということだ。
当然、専門の方からしたら間違いだらけだろう。
でも、本を読んだりネットの専門家の記事を読んでいるうちに、もしかしたら私がこれから語ることの中にも一考の価値があるのではないか?と思って書く次第だ。
まえがきが長くなったので早速始めよう。
タイトル
仏説 摩訶般若波羅蜜多心経
まずはタイトルだが、のっけから批判を受けそうなことを言わなければならない。
この”仏が語る”という仏はお釈迦さまのことではない。恐らく大日如来さまだ。
この大日如来さまは、お釈迦さまと舎利子を俯瞰して見ているようだ。
そして、『摩訶』は”凄い”という意味だ、
『般若』は”智慧”
『波羅蜜多』は”パス”や”道”、”方法”という意味でwayと言った方が適当かもしれない。
『心』は”中心”すなわち”エッセンス”という意味だ。もとは大般若経という長編のお経の抄訳まとめといった感じだ。
『経』は”そのまま伝える”という意味だ。
つまり、全体を通すと、
『大日如来さまが語った智慧に至る方法のエッセンスを伝える』となる。
お釈迦さまが悟ったこと
さあ、批判を覚悟でドンドン行きます。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄
『観自在菩薩』・・・これはヴィパッサナー瞑想(自己観察)を修行して解脱したお釈迦さまのことです。
実はこの『菩薩』という言葉は、まだ悟りに達していない修行中のお坊さんの意味なのですが、大日如来さまが上から目線でお釈迦さまを見た場合、まだ、悟り切っていない菩薩と見ているということなのです。
解脱はしたものの、まだ悟り一歩手前だったお釈迦が、これから伝える智慧に至る修行が深まった時に、”五蘊はみな空だ”と悟ったということです。
『度』はoverと読み替えた方が理解しやすい。つまり”全ての悩みを乗り越えた”ということです。
ここで『苦厄』に関して言っておきたいのは、これは現代人が思うような苦しみというような深刻な意味ではなく、単に悩み、もしくは各々の人生で乗り越えなければいけない問題・課題と理解した方がわかりやすいということです。
ここが私が強調して主張したいことなのです。
この『苦厄』とか『煩悩(ぼんのう)』とか『苦しみ』を今の私たちの感覚で、そのまま解釈するから、仏教はなんか辛気臭い宗教だと誤解されてきたのではないでしょうか?
さらには、これから解説する内容に踏み込むときに、最近では量子力学や脳科学まで持ち出して、迷信じみた神秘主義ではないけど、超科学的な神秘主義になっているように感じます。
お釈迦さまが悟った内容は、乱暴に感じるかもしれませんが、とてもシンプルな内容だったのではないでしょうか?
『あなたの、その不足感・・・放っておくと悩みに発展して、さらに悩みを解決しようとやっきになればなるほど、とてつもない悩みスパイラルに突入して、終いにはノイローゼになって死んでしまいますよ』
ってことで、『計(はか)らいを捨てなさい。そうしたらラクになるから、悩みが消えるから』ということでしょう。
このことは、現代人からしたら当たり前のことで、「それが出来たら苦労しねえや」みたいな内容ですが、これを今から2500年前の人が気づいたって、凄いことだと思うのです。
『地球は丸くて青くて、1日かけて、回っているんだよ。太陽の周りは1年かけて回っているんだよ』
と言ったところで、「そんなの知っているよ。だから何?」と言われてしまいそうですが、実際にほとんど人は、地球の丸さや青さ回転など、どれ一つとっても実感などしていません。
少し話が脱線しましたが、お釈迦さまは、ヴィパッサナー(自己観察)の瞑想で、この偉大な真理を悟られたわけですが、このときの内容は『無我』の境地であり、般若心経に話を戻すと『五蘊皆空』ではなく『五蘊皆無』と観察していたのです。
さて、ここから話の核心に入っていきます。
空とは何なのか?
ところが大日如来さまが説く方法を実践して、『五蘊皆空』と無から空へと一段上がったということなのです。
それまでの『五蘊皆無』と見ていたときのお釈迦さまにとって悩みは乗り越えるものではなく、消去する対象だったのです。
しかし『五蘊皆空』と悟ったことで、悩みを乗り越えることに成功したのです。
その喜びを
舎利子 色不異空、空不異色
と語ったのです。
『舎利子』は、お釈迦の一番弟子である知恵者であるサーリプッタ尊者という、
この人もまた解脱者なのですが、
ルパン三世の銭形警部、シャーロック・ホームズのワトソン君のように三枚目のキャラクターとして
登場させられています。
「サーリプッタよ、色は空と違わないし、空もまた色と違わないんだとわかったよ」
と語りました。
色は五蘊の中の一つです。
この五蘊についても、専門家の方と少々・・・
いや、だいぶ異なる見解なので、別記事で解説しています。
ここでは概念的に色と空の関係を説明します。
つまり
ということです。
恐らく、一般的な『空』の概念と違い過ぎて、炎上間違いなしです。
図を見ていただければわかる通り、色と空は違わないけど、どっちがどっちとも言えない関係にあります。
あらゆるアートは、「何を描くかよりも、何を描かないか?の方が重要だ」とはよく言われていることです。
そう、空とは空白のことなのです。
これがお釈迦さまが語った空とは違うところです。
お釈迦さまは、空は空(むな)しい、もしくは幻、または妄想であるという意味で使われました。
ところが大日如来さまの『空』の概念は、実体が存在するために必要なベースなのです(もう一つの意味もありますが、それは後述します)。
光を見るためには闇が必要です。
美しい音楽を楽しむためには静寂が必要です。
芳しい香りを楽しむ部屋がゴミ溜めの中では無理だし、
美味しい料理を楽しむのに、タバスコやわさびで舌がやられていては無理なのです。
心地よい海水浴を楽しむ前に体中生傷だらけではとても苦痛になってしまいます。
サーリプッタ尊者、カラまわり
もちろん、この概念は知恵第一の弟子サーリプッタ尊者にも通じませんでした。
ここから、また大胆な私の仮説ですが、般若心経の中で、お釈迦さまとサーリプッタ尊者は、会話しているのです。
そして、スマナサーラ長老が指摘されているとおり、間違いがいくつか混在しています。
それが
色即是空、空即是色、受想行識・亦復如是
なのです。さっきの図を見てもらえばわかりますが。色と空は異なるとは言い切れませんがイコールというわけではありません。
明らかに別の概念です。
ですがサーリプッタ尊者は知恵者ゆえに頭の回転が速く、
「つまり、色は空ということですね。ということは・・・空=色ですな。そして受想行識もそれぞれ空ということですね」
とやってしまうのです。
ここが厄介なのは、受想行識は空というのは、以前、お釈迦さまが定義して使っていた『空』の概念でも矛盾しないところです。
でも、そのときお釈迦さまは、『受想行識は空ゆえに無』と解釈していたのです。
そこで、お釈迦さまは別の説明を試みます。
舎利子 是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減
「サーリプッタよ、あらゆるモノゴトには空の側面があるのだ」
というわけです。
これはさきほどの説明でわかっていただけるはずです。
ちょっとここは説明の都合上、後ろから解釈します。さきほどの図をイメージしてください。
「何かが増えたり、減ったりしているわけじゃないんだよ」
ここから拡大解釈に感じるかもしれませんが、すべて個人の主観の中で起きている話なのです。
「汚いモノのきれいなモノもないし、だから何か不足したり不足が無くなったりしているわけじゃないだよ」
と言っているわけです。
確かにこれだけの説明ではわかりませんね。でも、あとで隻腕の剣士の話を紹介します。それで納得していただける人も増えると思います。
ここからがまた、サーリプッタ尊者の知的迷走が始まります。
是故空中、無色、無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法 無眼界、乃至、無意識界
「つまり・・・その『空』の境地に入って、世界を見れば、色も無く、あらゆる感覚器官は機能しないから、顕在意識も潜在意識も無い・・・」
だいたい『無』と表現されている箇所は、サーリプッタ尊者の間違いだということです。
でも、
無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽
だけは合っています。
ここで無明(無明)について、また専門家の方と違うことを言わなければなりませんが、
それはこの記事の『五蘊』のところで解説しました。
ここではそれを読んで頂いたものとして、話を進めます。
「確かに、不足感が外部環境によって満たされて無くなったとしても、また不足感が尽きるという事はないし、また不足感が満たされる事なく枯れて無くなったとしても、また異なる不足感が襲って来るので、完全に廃れるという事もないですね」
そして、ここから、いよいよ、とんでもない結末になってしまいます。
無 苦集滅道
「さて、そうなると、お釈迦様の教えの『苦集滅道』も必要無くなってしまいます」
これはエライことです!
なぜなら、これは、お釈迦さま悟ったエッセンスの否定だからです。
お釈迦さま、悩みのスパイラルを消す方法を悟ったのです。それが『苦集滅道』です。
それをサーリプッタ尊者が否定してしまった。
大日如来さまが新しい『空』という概念を伝えてくれているわけですが、
これはお釈迦が悟った内容をベースに積み上げた概念です。
中学校で方程式を習ったからといって、小学校の算数が不要になるわけではないのです。
無智、亦無得、以無所得故
「そうすれば覚りもなくなり、悩みスパイラルから抜け出せない……」
サーリプッタ尊者は、矛盾に突き当たったことにようやく気づきました。
「これ以上は得る所がなくなってしまったんでぇ・・・(降参です!)」
と音を上げました。
お釈迦さまとサーリプッタ尊者のやり取りはここで幕を引きます。
大日如来さま登場
ここで大日如来さま登場です。
「な?サーリプッタ尊者のような知恵者でも、こんなふうにカラ回りしてしまうんだよ、だから、『聞け!』となります。
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故、心無罜礙
「修行者よ!とにかく、この智慧に至る方法に頼れば、心から闇が無くなるんだ」
菩提薩埵は、悟りを志す修行者、つまり私達への呼びかけです。
無罜礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃
「心から闇が無くなれば、そんな恐れもがなくなり、あらゆる妄想に溺れる状態から離れ、最終的にあらゆる悩みから解放される」
涅槃とは『死』の意味ではなく、悩みから開放されて安心している状態です。
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提
「古今東西あらゆる解脱者は、
この智慧に至る方法によって、
最高の智慧(阿耨多羅三藐三菩提、あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得たのだ」
『阿耨多羅三藐三菩提』は音写されているそうで最高の智慧という意味だそうです。
もう、ここからは『般若波羅蜜多』という智慧に至る情報商材の怒涛のクロージングが始まります。
故知、般若波羅蜜多
「だから、この智慧の至るノウハウを知りなさい!」
是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚
「これは凄い神秘的なマントラなんだ、これ以上はないというくらい最高のマントラなんだ。マジで良く効くから、まあ騙されたと思って……」
『呪』は呪文、マントラ、真言のことです。
あっさりとノウハウが何なのか明かされました。
それは呪文だったのです。
これではスマナサーラ長老も怒るはずです。
だって、お釈迦さまはスッタニパータでマントラを否定されているからです。
ところが大日如来さまは、「いやいや、ヴィパッサナー瞑想で、理論上は悩みを無くす事はできるけど、それが出来るのはほんの僅かな人だよ。無くすよりも、乗り越えた方が良くないか?」と語りかけているのです。
故説、般若波羅蜜多呪
「だから智慧に至る真言を唱えよう!」となるわけです。
即説呪曰
「すなわち、この教えが言うには」
羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶
「ギャーテーギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソーギャーテー、ボージーソワカ」
そして呪文の内容に関する解説はないまま、
般若心経
「智慧のエッセンス(中心)を伝えたぞ」
で締めくくられます。
なんか煙に巻かれた気がしないではありません。
えっ?肝心の呪文の説明がないじゃん。
そして、この般若心経の元となった大般若経を持ち帰って翻訳した三蔵法師さんも「ええ感じの音なので、訳しませんでした」
般若心経を日本に広めた張本人の空海さんも
「ええ感じなので、ここから音をお楽しみ下さい」
って感じなのです。
さて、そして、私は、その謎を悟ってしまったのです。
だから、この長い文章を・・・批判を恐れつつも、わざわざ書く気になったのです。
さて、「ここからはnoteで有料で公開します」としたいところですが、
説明します。
ただし、これもけっこう長そうなので、別記事にします。