自分の願望を達成するためには、強烈な「無茶振り」が必要です。

無茶振りする事によってあなたの目標はクリアされ、願望が実現し、能力がアップする事で、それまであなたに上限として振られていたような仕事が下限になります。

ここまで聞いて「そんな事はわかっている、でも出来ないんだ」と思われたかもしれませんね。

ところが この記事では、そもそもその無茶振りの「概念」が違うのだというお話を書きたいと思います。

「スキルアップ」の罠

突然ですが小学生の頃、跳び箱は得意でしたか?

跳び箱って箱に蹴躓いたらカッコ悪いし、勇気を持って思いっきり飛んで、ぶつかったら怪我しそうで怖い人もいると思います。

最初の助走からして十分走っていなくて、ジャンプもしない子っていましたよね。

たぶんこういう子は、跳び箱が飛べる原理を理解していないか、理解していても自分にそれが出来るという感覚が無いのだと思います。

実際に飛ばせる前に、先生が助走やジャンプ、手の着き方など、一つ一つの動きを練習させれば、みんなが飛べるようになるかもしれませんね。

でも自分が子供の頃には「手本」を見せられただけで、飛べる原理までは説明してもらえませんでした。

跳び箱に限らず「教育全般」において、ある目標に達するには「お定まりの見本」を見せられるだけで、「どうすれば達成できるだろう?」という風に考える事は教わって来なかった気がします。

人生の目標も同じで、何かを達成したいと思った時、そこへ到達する手段というのは既に決定しているものです。

そして、その手段をクリアしなければ目標を達成する事は出来ませんが、その手段が決まって「困難な」方法だったりするのです。

しまいには その困難さに怯んで、そもそも目標を達成したいとも思わなくなってしまいます。

「手段」が目標になっている

ところが、目標を達成する手段は一つではありません。

跳び箱のゴールは「マットの向こう側」へ行く事ですよね。

でも、マットの向こう側へ行く事がゴールではなく「跳び箱が飛べる」事がゴールになっている・・・こんな事ばかりです。

誰も、跳び箱を飛ばずに「迂回して」歩いて、マットの向こう側へたどり着く人はいません。

学校でそれをやったら ただの変な人ですが、人生の目標は違いますよね。

ゴールに到達する事ができれば、手段は何であっても良いはずです。

マットの向こう側に行くのに、何も「跳び箱を飛ぶ」などという酔狂な手段を選ぶ必要はなく、まわり道であろうと「簡単」に歩いて行ける方が良いと思いませんか?

渋滞していたら迂回すれば良い

人と違った別の道を行こうとするには、確かに「発想の転換」が必要になります。

例え話として、昔読んだ物語に出てきたエピソードをご紹介したいと思います。

ある乳飲み子を抱えた母子が、旅の途中で食べ物が無くなってしまい、餓死しそうになっていました。

そこへ卵を抱えた大蛇が現れました。

母親は大蛇に「どうかその卵を一つ分けておくれ、代わりにどんな願いも聞くから」と言いました。

すると大蛇は「ならば代わりに、その赤子をよこせ」と言います。

母親は困ってしまい、話は堂々巡りするばかりです。

そこへ一人の流れ者が現れました。

母親が事の次第を説明すると、その流れ者が言いました。

「なんだ、ならば蛇を殺して卵を奪えばいいじゃないか」と・・・。

なんだか不思議な話ですが、この話のように人は何か囚われた価値観の中で生きているのかもしれません。

皆が行く道というのは、一見効率が良くて近道のように見えます。

ところがその道は競争率が激しかったり、相当な忍耐力を必要とするような険しい道ばかりです。

厳しい忍耐力を必要とするような方法では、そもそもゴールに到達できる可能性が低くなってしまいます。

競争率が激しいような道を選ぶと、人より優れた能力が必要になります。

ところが迂回路を選んだら、道はガラガラに空いているのでスキルもそれほど必要ありません。

効率ばかり追求しなければ、強い忍耐力も必要ないので、それこそ「今日から」でも始められる事だと思います。

最初に与えられた解決策の範囲内で考える癖、つまり発想が固定化されてしまう事が、願望を達成出来ない全ての元凶なのです。

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