無明とは

仏教用語では、よく『無明(むみょう)』という言葉が出てきます。

どの本にも書いてあることは同じで、その意味するところは、悟りの真理をしらない無知のことであり、平たく言えば馬鹿のことであると説明されています。

『苦しみの原因は無知である』ということなのです。

仏教関係者には大変失礼ですが、これは直感的ではないし、ピンと来ない。

私は、この『無明』という言葉の訳として『不足感』という言葉を当てたい。

これが、この記事の主張です。

そして『苦』や『苦悩』、『苦厄』の訳には、『問題・課題』という言葉を当てたい。

つまり『人生は問題や課題の連続であり、個人の不足感による行動のすべてが悩みの原因になる』ということになります。

ここで強調しておきたいのは、『不足感と不足はイコールではない』ということです。

あくまでも個人的な感覚や見解で『不足感』を感じているのであり、『絶対的な不足』が存在するわけではないということ。

空とは

これだけでも仏教関係者に批判を浴びそうなのに、
これから『空』の概念に関しても、まったく異なる持論を展開します。

『空』を図で示すと、

ということになります。

空白です。

ある活かしたいモノを際立たせるため、有効にするためのベースとなるものです。

光の世界の中では、光が認識できないように、
騒音の中では美しいピアノの音色が聞こえないように、

とても重要なスペースのことです。

空海は、書の達人です。恐らく意識していたことでしょう。

ダジャレですが、”空を解していた” ということです。

『無明』と『空』の密接な関係

無明については、すでに説明しました。
そう『不足感』のことです。

ここで『無明』と『空』の関係を一つの例をもとに説明したいと思います。

『隻腕の剣士』こと中学の教員をされている高宮敏光さんエピソードです。

動画がわかりやすいのですが、ここで簡単にあらすじを説明します。

彼は幼少時、不慮の事故によって片腕を失くしてしまいました。

その後、両親が自分達の過失に後悔していたり、
学校関係者たちの哀れみの視線が嫌で、
剣道を始めます。

当然ながら片腕しかないので、大変苦労されるわけですが、
大学生のときに、片腕だから出来る戦法を編み出します。

竹刀の柄(手に持つところ)を自由に持ち替えて、
対戦相手を幻惑するというものです。

この戦法は、両腕で柄(つか)を握る選手には出来ない戦法ですね。

もし、この戦法を思いついていなかったら、単なるムダな空きスペースです。

もう、おわかりですね。

私は、これを『空』だと解釈しているわけです。

これが “『不足感』と『空』の不思議な関係” です。

この柄(つか)の空きスペース、『空』は、彼の周囲の人達には発見できませんでした。

なぜなら彼らは、この世には『絶対的な不足』が存在すると捉えているからです。

でも、このスペースは、両手がある人たちには決して持てない空間なのです。

彼は片腕がないことで、このスペースが生まれているのです。

そして、片腕で生活せざるを得なかった彼は、
このスペースを有効に活用できるだけの器用さを持っていたのです。

つまり、彼が幼少の頃から、自覚していた通り、
彼の世界には『不足』などなかったのです。

周りの大人たちが、”哀れみ” という、
この『不足感』を植え付けようと躍起になっていただけなのです。

私の親戚にも似たような例がありました。

彼はとても明るい性格で、子供の頃、かなり楽しませてもらった記憶があります。

ですが、大人になって、久しぶりに見た彼は変わり果てていました。

恐らく、周りの大人たちに、たっぷりと『不足感』を刷り込まれたのでしょう。

この世は、このままで完璧なのです。

「何かが無い」と思い込んでいる一方で、同時に、その反対側には、
有ると思い込んでいる人達が持っていないモノが存在しているのです。

これが『不足感』と『空』の関係です。

五蘊(ごうん)とは

そして、『無明=不足感』と捉えると、色々と他の仏教用語の解釈も変わって来るのです。

当然です。『無明(むみょう)』という言葉は、仏教用語の中では、悟りの次に重要なキーワードなのです。

その定義が変わるのですから、ドミノ倒しのように他の仏教用語にも影響を与えて行きます。

次に五蘊(ごうん)を考えたい。
これは私というものを成立させている5つ要素だという見解が一般的ですね。

でも、『蘊』の本来の意味は、つみ集まったモノということで、汚い話ですがウンコと捉えた方がわかりやすいのではないか?

つまり、構成要素ではなく、5つの不足感のカテゴリーであり、総じて『嫌だなあ』と思う感情のことです。

五蘊は、『色(しき)』、『受(じゅ)』、『想(そう)』、『行(ぎょう)』、『識(しき)』の5つで、順番に説明していきます。

色(しき)

『色』は、物質と言われていますが、外見的特徴の「不格好だなあ……、不細工だなあ……」という外見的な不足感のことです。

受(じゅ)

『受』は、感覚器官と言われていますが、その中で「汚いなあ……、騒々しいなあ……、臭いなあ……、不味いなあ……、痒いなあ……」などの不快な感覚で、つまり快適の不足感のことです。

想(そう)

『想』は、観念と言われていますが、その中でも「貧乏だと思われいるんじゃないかなあ……不細工だと思われているんじゃないかなあ」などといったステレオタイプ的なラベリングによって嫌な気持ちになることです。

行(ぎょう)

『行』……行動と言われていますが、「会社や学校に行きたくないなあ……まだ起きたくないなあ」などのやりたくない事をやる時の感情です。

識(しき)

『識』……は識別、認識と言われていますが、その中でも、「この本、読みたくないなあ……、判断するの面倒くさいなあ……、勉強したくないなあ……」など、そもそも考えたくないことです。

どうですか?嫌な感情のオンパレードですね。これが人間の心の中で生じる5種類のウンコです。

ちなみに、これら『不足感』の源は、偏見という固定観念です。つまり苦しみの原因は、支配者に植え付けられた偏見なのです。

これを仏教では、何か客観的な心の働きとして捉えていました。
だから私というものを無くすとか、途方もない発想につながったのです。
確かにお釈迦さまはその境地に達したのかもしれませんが、やはり私のような凡夫にとっては死ななきゃ無理という気分になります。

最近では、さらに量子力学まで持って来て『空』を説明している人も増えています。
まだニュートン力学が発見される2000年以上も前の人が、そんなことを考えるって神秘的にし過ぎだと思います。

空に関しては、般若心経の記事で詳しく述べていますので、ここでは触れませんが、お釈迦さまは、もっとシンプルに人間の持つ心の悩みにフォーカスして、それ以外の問題を無視したと見る方が自然ではないでしょうか?

十二支縁起とは

輪廻転生?

だから、十二支縁起についても一言だけ言いたい。
十二支縁起は『無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死』とされています。
これは輪廻転生の説明に使われています。
お釈迦さまくらい合理的に考えた人が輪廻転生?
恐らく、この十二支縁起は、お釈迦さまが亡くなられてから考えられたものでしょう。

ここで問題にしたいのは、『生→老死』の解釈です。

これは『生→衰滅』なのではないでしょうか?

つまり、ここでいう『生』は、誰それが生まれたという話ではなく、『悩みが生じる』という意味でしょう。

だから悩みが衰滅するのです。いつも『生老病死』で四苦とセットでうるさいのに、ここにきて『老死』で『病』が抜けていておかしいと思った次第です。

矢印が逆

さらにもう一つ仮説を提示します。

というのも『無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死』とドミノ倒しになって苦に至ると説明される場合が多いのですが、お釈迦さまって、もっとシンプルに考えられる方なんじゃないかと思うので、何かゴチャゴチャした印象を受けるんです。

苦の原因は、無明(不足感)である。

ここまではとてもシンプルです。

だから悩める者は不足感を捨てようとするわけですが、ではその不足感はどうして生じるのだろう?となるわけです。

一口に悩むと言っても、悩める人たちの不足感は、人それぞれ癖があります。

その答えが、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の11種類のパターンだよ、ということです。

行……過去の自分や他人の行為に縛られやすい癖。

識……『正義』、『平等』、『自由』、『博愛』等の大義名分に縛られやすい癖。

名色……『セレブ』、『高級』、『貴族』等の有名無実なラベリングに弱い癖。

六処……「自分は優れた眼を持っている」、「自分は優れた肉体を持っている」など自分の身体に縛られやすい癖。

触……心地よさ、快適さに縛られやすい癖。

受……美的感覚、センス、自分の趣味に縛られやすい癖。

愛……家族関係に縛られやすい人。人のモノが欲しくなる。

取……何かを手に入れたら、付随するモノのコレクションに走りやすい癖。手段に縛られる。

有……手に入れたモノから発生して不足感が生まれやすい癖。

生……生まれつきの何かに縛られやすい癖

老死……外見的な若さ、美しさが頭から離れない癖。

おわかりでしょうか?
矢印はドミノ倒しのような方向ではなく、11種類すべてが『無明』に向いているのです。
矢印の方向が逆なのです。

つまり無明が苦に至るパスを順番に示しているのではなく、無明に至る原因は11種類あるよってことなのです。

まとめ

人間は、根拠のない『不足感』にとらわれて、その『不足感』を行動原理として日々生きている。

その活動の結果、ときには獲得し満足し解消されるが、その満足は「次は失うかも・・・」という悩みを生じさせる。

また『不足感』を原動力にして努力したものの、願い叶わず、徐々にあきらめて行き、そのうち、その悩みそのものが薄らいで行くことが大半だ。

でも『不足感』が根本的に尽きることがないので、死ぬまで悩みのスパイラルから抜け出せない・・・
ということではないでしょうか?

以上、素人が『無明(むみょう)』と『空(くう)』、『五蘊(ごうん)』や『十二支縁起』から神秘的な要素を排除した見解を示しました。

専門家の方は、さぞご立腹されるだろうと思いますが、ご容赦下さい。

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